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茨城県古河市(旧総和町)において50年以上続く
子供から大人まで一緒に楽しく活動している剣道クラブです

総和剣道クラブの歴史

戦後の武道解禁から10数年が経過し青少年スポーツもまだ普及されていない昭和30年代後半に故望月四郎範士が自宅近所で遊ぶ少年たち5、6人に剣道の手ほどきをしたのが当クラブ発足の礎となり、その後、総和中学校の体育館を借用して故望月四郎範士を中心に剣道愛好者が集い、町の青年団サークル活動の一環として少年剣道教室を計画、小・中学生の健全育成及び自らの心身の鍛練を目的として稽古を開始しました。

活動をしていく中で組織の必要性を感じ、当時中心的な指導者であった『故望月厳(平成22年8月4日逝去)・田島清太郎・阿久津幸一・小林茂祥・塩田理一』の5氏が組織確立に向けて東奔西走し、昭和43年(1968年)総和剣道クラブは故望月四郎範士を初代会長として誕生しました。

総和中学校の体育館が使用できなくなってから総和町青年研修所を借りて稽古を続けそれ以来順調な活動の中で上部団体への加入及び各道場等との交流を持ちながら、クラブ員の資質の向上を図るとともに少年少女たちにも年齢に適した指導、あるいは個人の特性を生かした指導を心がけ、技術の向上と心身の練磨に励んできた結果、世界大会をはじめ、毎年夏に日本武道館で行われる全日本少年剣道練成大会、全国中学校剣道大会、全国高等学校剣道大会(インターハイ)、全日本大学選手権(インカレ)、全日本選手権大会、ほか各種大会にて好成績を修める者を輩出するようになってきました。

昭和50年代前半に総和町教育委員会と共同で開催した剣道教室も、その後クラブ独自で継続しましたが昭和55年4月から子供たちが通いやすいように、また剣道の底辺拡大を目的として下大野教室(青年研修所。後に中央運動公園総合体育館剣道場)、上辺見教室(上辺見小学校体育館)、駒羽根教室(駒羽根小学校体育館)を新設、各教室に2名の指導者を派遣して子供たちの指導を始めました。その成果が昭和50年代後半になってあらわれ、最盛期には約200名の会員を数えるまでになりました。その後、少子化・子供たちの剣道離れにより衰退し各教室とも10数名の状態が続いたため、平成になったあかつきに教室を閉鎖、本来の1ヶ所での活動となって現在に至っています

少年少女たちの健全育成にとって不可欠な父兄とのコミュニケーションは昭和46年(1971年)に設立された総和剣道クラブ後援会を通じて定期的な交流や会議をもって情報の交換をしています。

指導者・後援会・子供たちと文字どおり三身一体となって剣道のみならず、古河市(平成17年9月12日、総和町は古河市と三和町と合併し古河市となった)の行事等にも積極的に参加して、より広く、より大きく情緒豊かな子供たちを育てるために色々な行事を計画し実行しています。

特に三身一体の証として昭和47年10月に始まった剣道大会は平成24年10月28日に開催された第40回大会を節目に長年親しまれてきた『近県剣道大会』の名称から『厳心旗争奪総和剣道大会』と改称しました。

以上のような活動の中で昭和53年に優良社会教育団体として国から『文部大臣賞』を茨城県より「ばら賞」を受賞したことはクラブ会員にとって大きな励みとなっています。

平成3年11月、初代会長であった故望月四郎範士のあとを引き継ぎ、故望月厳先生が2代目会長として就任しました。日ごろより青少年の健全育成のために尽力し、剣道のみならず多方面に渡る活動で立派な功績を残されましたが、平成22年8月4日に惜しまれながらこの世を去りました。


平成22年10月に3代目会長として古谷芳和が就任。初代会長の四郎先生、そして2代目会長の厳先生の遺志を引き継ぎ、先生方がまいてくださった種を大きく育てるため、後進の指導と地域の発展に尽力しました。

令和5年2月5日に第4代会長として落合茂樹が就任しました。先代たちが築いてくれた栄誉と伝統を守りつつ、一層の組織拡充と会員相互の人格向上を目指し、地域社会発展に役立つ人々を育て送り出すことを目的として歩み続けていきたいと思います。

総和剣道クラブマーク

  • クラブマーク

    昭和47年に山内画伯により製作され、制定された総和剣道クラブのマーク

  • ワッペン

    総和剣道クラブのワッペン。小中学生は剣道着の左腕の部分につけています。

各種コンテンツ

50周年記念誌

外部サイト

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